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23. 宮門の内と外

作者: 月歌
last update publish date: 2026-03-02 19:27:36

楚凌は、男の顔を見つめ問いかけた。

「名は?」

「韓守義(かん・しゅぎ)と申します」

楚凌は短く頷いた。

「……楚凌だ」

名を告げながら、胸の奥に小さな違和感が残る。

“楚将軍”と呼ばれることに、もう慣れていない自分がいる。

韓守義は息を整える暇もなく、低い声で切り出した。

「お願いがあります。このまま、私と共に宮へ来ていただけませんか」

楚凌の眉が、わずかに寄る。

「……俺は門番だ」

言い訳ではない。

それが、今の立場だった。

将軍でも、功臣でもない。

東門を守る、ただの男。

「承知しています」

韓は即答した。

「ですが、今回の謀反――中心にいるのは、陸曜(りく・よう)将軍です」

その名に、楚凌の目が細まる。

「……陸曜か」

かつて同じ戦場に立ち、互いの策を読み合い、先を奪い合った男。

敵ではない。

むしろ、誰よりも信頼できる“もう一つの刃”。

「陸曜は、景衡王爺の側近として北方へ派遣されていました」

韓は続ける。

「雪瓔が殿下の側に入り、あなたが突然門番へ落とされたことに、強い憤りを抱いていたと聞いています。その不満に、蒼隼国が付け込んだのでしょう」

楚凌は歯を食いしばった。

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  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   54. 産声

    痛みは、波のように繰り返し押し寄せてきた。一度遠のいたかと思えば、再び腹の奥が強く締めつけられる。蘭珠は敷布を握りしめ、声を堪えながら必死に呼吸を整えた。「……っ、う……」「蘭珠様、息を止めないでください。ゆっくり吐いて」枕元から声をかけたのは、紙問屋の娘である芳玉だった。その反対側では、これまで身の回りを手伝ってくれていた女が、汗に濡れた蘭珠の額を冷たい布で拭ってくれている。二人とも、ずっとそばにいてくれた。自分の出産など、本来ならこの家には何の関係もない。それなのに紙問屋の一家は部屋を貸してくれただけでなく、湯や布を用意し、芳玉まで付き添ってくれている。「芳玉さん……本当に、もう大丈夫ですから。こんな夜中まで付き添っていただくなんて……」痛みが引いた隙にそう言うと、芳玉は困ったように眉を下げた。「今はそんなことを仰らないでください。蘭珠様には、私のことでたくさん助けていただいたんですから」「でも……」「遠慮なさらないでください」今度は手伝いの女が口を挟んだ。「私はもともと蘭珠様のお手伝いをしているのですから、こんな時にいなくてどうするんです」二人にそう言われ、蘭珠はそれ以上断ることができなかった。ありがたい。だからこそ、余計に申し訳なくなる。火事に遭い、足を傷つけ、突然この屋敷へ転がり込んだ。それだけでも迷惑をかけているというのに、今度は出産まで始まってしまった。「……ありがとうございます」蘭珠は小さく頭を下げた。その直後、また腹が硬くなった。「……っ!」今度の痛みは強かった。下腹の奥から腰へかけて、きつく絞り上げられるような痛みが広がる。蘭珠は敷布を握ったまま目を閉じ、侍医に教えられた

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   53. 帰るための戦い

    陸曜を討ったあとも、大門の内側には血と火の臭いが残っていた。捕らえた兵たちは次々と連行され、負傷者には敵味方を問わず手当てが施されている。つい先ほどまで剣戟が響いていた石畳には折れた武器が散らばり、兵たちはそれを拾い集めながら、城外の様子を何度も気にしていた。楚凌も、大門の上から外を見ていた。遠くに見える景衡軍の松明は、明らかに乱れている。陸曜を失ったことで統率が崩れたのだろう。先ほどまで整然と並んでいた灯りは少しずつ南へ流れ始め、街道へ向かう一団も見えた。景衡は逃げる。その読みは、おそらく間違っていない。「楚凌殿」門番頭が隣へ立った。「敵は退き始めておりますな」「ああ」楚凌は短く答えた。逃げる先も分かっている。景衡が治めていた国境の土地だ。かつて景炎と共に戦い、蒼隼国から奪い取った土地だった。城の位置も、その周囲を走る街道も知っている。景衡が自らの領地へ戻れば、残った兵をまとめ直し、蒼隼国へ助けを求めるだろう。そうなれば、また戦が始まる。ここで終わらせなければならない。分かっていた。それでも身体は、もう休めと言っていた。背中の火傷は脈を打つように疼き、陸曜との戦いで開いた肩の傷からも血が滲んでいる。剣を握っているだけならまだいい。だが腕を大きく動かすたびに、肩から背中へ鋭い痛みが走った。「一度、侍医に診せられた方が」門番頭が心配そうに言う。楚凌は首を横へ振った。「まだ終わっていない」「しかし、その身体では――」そこへ、馬の足音が近づいてきた。王都の奥から一騎の近衛が駆けてくる。男は楚凌の姿を見つけると急いで馬を降り、そのまま膝をついた。「楚凌殿。殿下よりご命令です」楚凌の表情が引き締まる。「申せ」「景衡王爺は南へ退却を始めたものと思われます。王都の守備兵は残し、騎馬を中心

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   52. 皇太子の決断

    正殿へ駆け込んできた伝令は、息を切らしたまま床へ膝をついた。「ご報告申し上げます! 陸曜将軍、討ち死ににございます。楚凌殿がこれを討ち取りました。陸曜に従って入城した兵も武器を捨て、現在は拘束されております!」一瞬、誰も声を発しなかった。その報告の意味を理解するまで、わずかな間が必要だったのだろう。やがて正殿にどよめきが広がり、張り詰めていた武官たちの顔にも、初めて明確な安堵が浮かんだ。「陸曜を討っただと……!」「では、反乱軍はもう――」「景衡王爺だけでは軍をまとめられまい!」口々に声が上がる。だが、景炎だけは表情を崩さなかった。陸曜を失ったことは大きい。景衡は皇族であるというだけで反乱軍の旗印になれる。だが、自ら軍を率いて戦況を判断し、兵をまとめ上げる力量がある男ではない。王都内部へ工作員を潜ませ、火を放ち、民を煽り、門を内側から開かせるという今回の策も、実際に組み立てて動かしていたのは陸曜だった。その男が死んだ。ならば、景衡が次に取る行動も、おおよそ想像がつく。「まだ終わっていない」景炎の低い声に、浮き足立ちかけていた正殿が静まった。「陸曜は死んだ。だからこそ、景衡は逃げる」景炎は机に広げられた地図へ視線を落とした。王都から南へ延びる街道。その先には、景衡が治めている国境近くの土地がある。もとは蒼隼国の領土だった。かつて景炎と楚凌が共に戦場へ立ち、多くの兵を失いながら蒼隼国から削り取った土地である。瑞華の領土として安定させ、国境を守らせるため、景炎は弟である景衡へその統治を任せた。皇族として責任を果たしてほしい。弟ならば、瑞華のために土地を守るだろう。そう信じていた。だが景衡は、陸曜とともに兄を裏切った。あろうことか、かつて戦った蒼隼国と手を結び、自らに託された土地を反乱の拠点へ変えたのである。王都攻略に失敗した以上、景衡が逃げ込む場所

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   51. 閉ざされる門

    城外から近づいてくる騎馬の列を、楚凌は城壁の陰からじっと見つめていた。白旗を三度振ってから、さほど時間は経っていない。それでも待つ時間は妙に長く感じられた。大門は開いたまま、門前には敵兵から奪った旗が掲げられている。捕虜の装束をまとった味方の兵も、外から見える場所に数人だけ配置していた。城外から眺める限り、王都の大門は完全に反乱軍の手へ落ちたように見えるはずだった。「先頭、騎馬十数騎」隣の門番頭が低く告げる。「後方にも兵が続いております。百……いえ、それ以上かと」「本隊ではないな」「はい」楚凌は小さく頷いた。陸曜は景衡軍すべてを連れてくるつもりではない。慎重な男だ。王都の大門を確保したとの報せを受けても、まずは自ら護衛を伴って入り、内部の状況を確認する。その後に本隊を動かすつもりなのだろう。それでいい。むしろ、その方が都への被害は少なくて済む。楚凌は城壁から降りると、門の内側に配置した兵たちを見回した。誰も声を出さない。槍を握る手に力が入り、弓兵たちも暗がりの中で息を潜めている。「陸曜本人を確認するまで動くな」楚凌は念を押した。「護衛だけが入ったところで門を閉じれば、外に本人が残る。それでは意味がない」「はっ」「それから、敵が入ってきても騒ぐな。最後尾まで十分に門を越えさせろ」門番頭が頷いた。楚凌は腰の剣へ手を添えた。背中が熱い。包帯の下では火傷が脈打つように疼き、肩の傷も先ほどの戦闘でまた開いたらしい。衣の内側へじわりと血が滲んでいるのが分かった。だが、不思議と身体は軽かった。痛みを感じないわけではない。それよりも、今まで散らばっていたものが一つの場所へ集まってくるような感覚があった。将軍だった自分。門番へ落とされた自分。蘭珠を妻として迎えた自分。そのどれもが、今夜この門

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   50. 早すぎる陣痛

    紙問屋の屋敷へ移ってから、どれほど時間が経ったのだろう。蘭珠には、もうよく分からなくなっていた。外では今も騒ぎが続いている。遠くで警鐘が鳴り、ときおり人々の叫ぶ声が夜の静けさを破る。窓は固く閉ざされていたが、どこかで燃えている火の臭いが、かすかに部屋の中まで入り込んでいた。それでも、先ほどまでに比べれば屋敷の中は落ち着いている。楚凌がここを離れる前に周囲の安全を確かめ、紙問屋の者たちも蘭珠が休めるよう奥の一室を用意してくれた。さらに、しばらく前には宮中から侍医と護衛の近衛まで到着している。皇太子が寄越したのだという。それを聞いた時、蘭珠の胸には複雑なものが込み上げた。景炎が自分の身を案じている。以前なら、それだけで心が満たされたのかもしれない。あの人が自分を気にかけてくれた、その事実だけで嬉しくなり、もう一度顔を見たいと願っただろう。けれど今は、その気遣いを素直に喜ぶことができなかった。「蘭珠様、お水を」声をかけたのは、これまで身の回りを手伝ってくれていた女だった。その隣では、紙問屋の娘である芳玉も、湯や布を運びながら落ち着かない様子で蘭珠を見守っている。「ありがとうございます。でも、本当に皆さんまで付き添ってくださらなくても……」蘭珠は申し訳なさそうに笑った。「私はもう十分にお世話になっています。お屋敷まで貸していただいて、そのうえ芳玉さんまで……」「そんなことを仰らないでください」芳玉はすぐに首を横へ振った。「蘭珠様には、私の縁を取り持っていただいた御恩があります。それに、今はそんな遠慮をなさっている場合ではありません」手伝いの女も、少し困ったように笑う。「そうですよ。私は元々、蘭珠様のお手伝いをするためにおりますから」二人にそう言われ、蘭珠はそれ以上断ることができなかった。ありがたい。だからこそ、余計に申し訳ない気持ちにもなる。自分の事情で、どれほど多くの人を巻き込んでしまったのだろう。蘭珠は寝台の上で、そっと腹へ手を置いた。子は無事だ。侍医にもそう言われた。足の傷も深刻なものではなく、しばらく安静にしていれば問題ないという。だから今は、待つしかない。楚凌が戻ってくるのを。「……また」腹の奥が、きゅっと縮んだ。蘭珠は眉を寄せる。先ほどから何度か同じ感覚があった。最初は強い痛みではない。腹が硬

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   49. 白旗三度

    青い狼煙が二筋、夜空へ立ち昇った。王都の西側では、なお火の手が上がっている。赤黒い煙の向こうに混じる青はひどく異様だったが、それこそが敵にとっては待ち望んでいた合図だった。楚凌は城壁の上から、城外に並ぶ松明を見つめていた。やがて、その一角が動く。「来ます」隣にいた門兵が低く告げる。暗闇の中から、まとまった兵の列がこちらへ進み始めていた。先頭に数騎の馬があり、その後ろを歩兵が続いている。人数はおよそ三百。第一陣よりはるかに多いが、城外に残された本隊全体が動いたわけではない。陸曜は、まだ慎重に様子を見ている。楚凌はそう判断した。「大門前の民は」「すでに別の通りへ誘導しております。火から離れた場所へ避難させました」「よし」楚凌は城壁を下りる。西の大門へ向かう間にも、門番たちは慌ただしく動いていた。だが、その動きは城外から不自然に見えぬよう抑えられている。内応者の一部はすでに捕らえていたが、敵にはまだ知られていない。今夜、最も重要なのはそれだった。相手に、こちらが何も気づいていないと思わせる。そして、勝利したと思わせる。大門の前へ着くと、楚凌は巨大な扉を見上げた。この門を開く。将軍だった頃なら、敵兵が目前に迫る中でそんな命令を出す自分など想像もしなかっただろう。だが、門番となった今は違う。門は閉ざすためだけにあるのではない。人を通し、止め、その流れを変えるための場所でもある。毎日ここへ立ち続けたからこそ、どこまで開けば隊列が滞らず、どこへ誘導すれば城外から姿が見えなくなるのかも分かっていた。「開門の準備を」楚凌が命じた。門番頭の顔に緊張が走る。「全て開きますか」「敵が疑わぬ程度までだ。三百が滞りなく入れる幅を確保する」「承知しました」閂へ兵たちが取りつく。何人もの男が力を合わせ、太い木材を持ち上げる。重い音が響き

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   10. はじめての家事、はじめての肉饅頭

    楚凌が東門の見張りへ向かったあと、蘭珠は静まり返った小さな家の中を見渡した。こんなに“やることだらけ”の空間に放り込まれたのは、生まれて初めてだった。「……えっと。まずは、お掃除……かしら」宮中では片づけは侍女の仕事だった。 蘭珠が持つ箒の使い方は、見よう見まねでしかない。それでも、やらなければならない。(楚凌様は……わたくしのために働きに出てくださっている。わたくしも……できることを)意気込んだものの、数刻後。部屋の隅には、掃いたはずの塵が小さな山を作り、桶いっぱいに汲んだ水は床にぶちまけてしまい、洗濯は桶に浸けただけで腕が疲れて動けなくなった。「ど、どうしてこんなに難

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   5. 夫の目が、私を映さない

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    景炎が出陣して三十日。蘭珠は毎朝、宮門のほうを見つめる癖がついてしまっていた。勝利の報せは届いた。しかし景炎本人からの文は、最初の一通きりだ。「必ず戻る」と記された、あの短い文を最後に。蘭珠は机に向かい、書きかけの返書をゆっくり丸めた。何度書いても、出す前に胸が疼く。(殿下……どうして何の返事もくださらないの)体を動かさなければ、涙が溢れてしまいそうだった。だから庭に出る。ゆっくりと歩き、朝露の光る芍薬の花を眺める。けれど、心は晴れない。そこへ突然、侍女の梅香が駆け込んできた。「蘭珠様! 急ぎのご報せです!」「景炎の……殿下のお便りかしら!?」期待が一気に胸へせ

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   3. 風の中の影

    夜更けの回廊は冷え切っていた。蘭珠はその中を、ひとり震えながら歩いていた。産むべき子を抱えた腹を、そっと両手で包み込む。景炎が出陣してから、宮中は目に見えて変わった。侍女たちは蘭珠を避けるようになり、妃仲間も距離を置く。理由はわからない。ただ——景炎が書き送ってきた文が、ぱたりと途絶えた。「何かあったの……?」胸の奥で不安が揺れる。あれほど深く求められ、愛され、「必ず戻る」と誓いさえ交わしたのに。蘭珠は壁に手を添え、深く吸い込んだ。冷たい空気が肺を刺し、胸が締め付けられる。そんな彼女のもとへ、小走りの影が近づく。「蘭珠様、戻られましたか……!」若い侍女・梅香が、顔

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